2017年08月13日

2017年8月12日、熊本城二の丸広場の石置き場、西南戦争籠城将校家族避難跡

2017年8月12日撮影
熊本城二の丸広場の石置き場、西南戦争籠城将校家族避難跡


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時習館跡の碑からもう少し北に進むと石置き場があります。

少しでも近くで石置き場の石材をみてもらおうと、観覧区域が拡大され奥まで行けるようになりました。

でも、石材が近くで見えるのがわからないのか、ここはあまり観光客はいません。

この日もひっそり・・・

今、雑草がすごくて石そのものも雑草に埋もれているしね。



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石置き場から東に向きを変えると、目に飛び込んでくるのは隅石一本で頑張っている戌亥櫓。

戌亥櫓についは次のページ。


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『西南戦争籠城将校家族避難跡』と書かれた案内の碑と『籠城将校家族避難之跡』の石碑があります。

西南戦争の際、熊本城に籠城した鎮台側の将校の妻子が、弾丸の飛来を避けるため、この空掘で避難がしました。

明治10年(1877年)2月19日、お昼前、熊本城出火。西南の風が強く四方に延焼。このとき、大小天守、本丸御殿など本丸中心部の建物が焼失。城下も炎上。

2月21日、城外で障害となる家屋に放火。 『射界の清掃』城下の民家などが薩軍の隠れ家や陣地となることを防ぐために、鎮台によって戦略的に行った。

19日の熊本城火災で城下も焼けましたが、さらに21日に邪魔になる家屋を焼き払いました。

これによって、鎮台の将校の妻子も家がなくなり、西出丸の空堀で避難することに。


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石碑は大正12年5月建立。

空堀まで降りて行けるようになったので、石碑の裏も見えるようになりました。



    
肥後 熊本 歴史
    

装飾古墳・・・石室や石棺の壁面に線刻や彩色が施された古墳
約660基・・・国内で確認されている装飾古墳
195基・・・熊本県が最多で195基あり、次いで福岡県が60数基ある


    
熊本城 年表
    

天正16年(1588年)5月、豊臣秀吉が佐々成正に切腹を命じる
天正16年(1588年)6月、肥後を二分し、北半国を加藤清正(隈本城)に、南半国を小西行長(宇土城)に分け与える
天正16年(1588年)10月、肥前名古屋城築城着手、加藤清正・小西行長・黒田長政らの縄張による


 宇土城 

住所・・・熊本県宇土市古城町
築城・・・天正17年(1589年)
城主・・・小西行長

天正16年(1588年)、肥後に入国した小西行長は、宇土に居城となる新城の築城を開始。
関ヶ原の戦いに際し、行長は主力を率いて関ヶ原に赴き、宇土城は城代の小西長元、内藤如安らが守備。
そこへ、東軍の加藤清正軍が押し寄せ包囲する。小西軍は善戦するが、関ヶ原の敗報を聞き開城。
慶長17年(1612年)、幕府の命令で破却。


posted by 夢子 at 16:48| 熊本城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする