2010年05月13日

【玉名市永徳寺】俵ころがしを行っていた高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

【玉名市永徳寺】俵ころがしを行っていた高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

【玉名市永徳寺】俵ころがしを行っていた高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

【玉名市永徳寺】俵ころがしを行っていた高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

熊本県玉名市永徳寺にある高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

玉名市のもともとの中心街は菊池川沿い、高瀬で古くから栄えていました。

高瀬には、菊池川河口にのぞむ港があり、有明海でただ一つの良港として古くから中国などの外国船が出入りしていた。

県北を流れている菊池川は、清正着任以前は、今の玉名市高瀬町あたりから伊倉の西を通り、横島町横島と天水町久島の間を通って、有明海に流れていた。
それを清正は、高瀬のところから西へ、新しく川を掘り、大浜と小浜の間に移し、これにより、洪水のとき、高瀬町が水びたしになることが少なくなりました。

菊池川河口の掘り変えと共に、清正は肥後北部の経済の中心地として、菊池・山鹿・玉名地方で生産された米を集め、積み出すことができるように船の発着場や米蔵(御蔵)を整備するなど、港の規模を大きくする事業に力をそそぎました。
清正のこの事業は、そのまま細川氏に受け継がれ、船着場、御蔵などの施設はさらに充実しました。細川氏は港付近の川岸を補強し、その間を切って、川べりへ通ずる石敷の「俵ころがし」とよばれる坂道と、川へ突出する石畳と、御蔵へ通ずる石段などを築きました。

藩が年貢として集めた米は、上流の地方から40俵ずつ平田舟に積み込まれ、川を下って『高瀬港』に集められた。

高瀬港

荷揚げ場
一番多い時、肥後40万俵のうち25万俵が玉名に集まった

米蔵(保管)

俵ころがし
坂道を使い、再び平田舟へ積み込む

大浜 五百石船に積み替える

大坂

※大坂へ運ばれた肥後米(当時は「高瀬米」)は全国の基準米として、その年の米相場を左右したといわれている。
これは肥後米の品質が高かった証拠。



【玉名大俵まつり】
毎年9月に、「俵」に玉名の未来への希望と発展の願いを込め、重量80kg、幅4m、直径2.5mの大俵を転がす祭りを行っています。



【玉名市永徳寺】俵ころがしを行っていた高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)

高瀬大会戦  西南の役の“関ヶ原”

西郷 小兵衛(さいごう こへえ) は西郷隆盛の末弟で、20歳もはなれていた。幼少6歳で両親を失ったので、長兄の隆盛は特別に可愛がり育成に当たった。
西南の役前は加世田郷の副戸長であったが、容貌性格も兄によく似ていたし、思慮深く戦陣にも勇敢で非常に人望が高かった。
出陣前の私学校大評議でも、出兵方針につき堂々たる意見を述べて信頼を受けていた。2月27日の高瀬を巡る攻防戦で、繁根木川を境にして繁根木八幡宮に立てこもる官軍大部隊と激戦を展開、堤防上で陣頭指揮をとっていたが銃弾を胸に受けて戦死。31歳の若さであった。 最後に部下の兵を顧み、「兄どんに、先きに逝ってすまぬと伝言してくれ」と述べた。 銃弾に倒れた小兵衛を担ぎだすために、薩摩兵たちは橋本鶴松家から雨戸1枚を買い受け、それに載せて高瀬川を渡り桃田方面へ向かった。戦後、小兵衛夫人松子から橋本家に寄せられた丁寧な礼状は6通にもおよんだこと、はじめの墓標は薩摩側についた熊本隊 佐々布 遠の筆によるものなど小兵衛をめぐる逸話は今も土地の人々に語り継がれている。


【玉名市横島町】国指定重要文化財 有明海旧干拓施設群 / 横島干拓旧堤防跡 
(画像をクリックすると大きくなります)

地図中央の赤い四角の真下に俵ころがし跡があります。



高瀬船着場跡(たかせふなつきばあと)
熊本県玉名市永徳寺字414番地15地先
posted by 夢子 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 【熊本】観光地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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